美唄市郷土史料館

ビバイ 美貝 美唄

今の美唄を知るうえで欠かせないものが“歴史”であり、唯一のオリジナル(らしさ)です。
市内には、歴史を感じ、見て、体験できるものなどたくさんありますが、もう少し深く知ったうえで市内を訪れてみると、感じ方や見かた、納得する場面や疑問に思うこともきっと変わってくると思います。

“美唄市郷土史料館”を訪れると、美唄と呼ばれる前の時代から炭鉱・生活・文化を知ることができ、少しだけ現在から未来を感じてもらえる施設です。
このページでは、資料館の紹介というよりは、資料館に残されている歴史の一端をご紹介します。

ピパ・オ・イ(川真珠貝が・たくさん・いるところ)とアイヌ語地名で呼ばれた美唄は、地質学者のベンジャミン・スミス・ライマンによる「美貝煤田測量報文」以来には美貝と呼ばれ、屯田兵が配備される頃には沼貝村(アイヌ語地名の翻訳)そして、現在の美唄へと開拓が進んでいきました。

美貝と一般的に用いられていた頃に計画されたのが樺戸空知間新道(樺戸道路及び道道月形峰延線)の開通で、空知・樺戸両集治監を結ぶ重要な道路であり、上川仮道路(国号12号線)が竣工した翌日に着工されました。両工事ともに集治監の囚人たちよって開削され、湿地帯の沼を直線で結ぶ工事や土・砂利などの手そり運搬などかなり困難な内容でしたが、着工から1年で完成させ、その後、移住が始まり沼貝村が設置された翌年に屯田兵が配備され、屯田兵屋建築に着手する大工や人夫なども増え、定住者も増加するうえで商業も繁盛していきました。

石炭の都 美唄

屯田兵の解隊後、移住農民も増え農業開拓も進むころ、アメリカ人地質学者ベンジャミン・スミス・ライマンの調査地域を中心に試掘して美唄炭田の開発が進められ、鉱区権を転々としながらも坑夫やその家族などを含めて炭鉱集落も形成されていきます。
大正2年に飯田美唄炭鉱開鉱と、翌年に鉄道の開通で炭山市街地の我路町が誕生し、鉄道開業時には旅館・飲食店・湯屋・理髪店・などその他あらゆる種類の商店が並び、その前年の美唄市街地戸数に匹敵する戸数が美唄川上流域に建てられました。その後、三菱美唄炭鉱が買収し1万人を超える従業員となります。

昭和に入り現南美唄町にあった日本石油光珠炭鉱を日本二大財閥の一つである三井(三井鉱山㈱)の買収により三井美唄炭鉱が誕生。
国内炭鉱別出炭量で、上位10炭鉱に三菱美唄と三井美唄が入り、一市町村単位で生産高十位以内の巨大炭鉱が二つ入っているのは全国でも美唄だけでした。
三井美唄炭鉱は昭和38年、三菱美唄炭鉱は昭和48年に閉山となりますが、最盛期の東部山麓一帯は不夜城の状態で、炭都(石炭の都)美唄と呼ばれたゆえんです。

東西からなる二面性

ここまで開墾から炭鉱産業について書いてきました、現在も炭鉱遺産は数多く残されており、特に“安田侃彫刻美術館 アルテピアッツァ美唄”は美唄を代表する施設となっています。
ただ、美唄市を語るうえで線路と国道12号線を挟んだ西側の歴史も重要です。
各商業施設や農業、そして“宮島沼”があり、炭鉱という激動の時代を乗り越えてきた山は、アルテピアッツァ美唄という心安げる場所となり、開墾と基幹産業で町を作り上げた広大な大地には宮島沼という生き物が共存している場所となりました。まさに静と動であり不思議な二面性を垣間見ることができます。

美唄市郷土史料館は、そんな歴史を伝えてくれる施設であり、今を知る手掛かりとなる重要なスポットです。

参考:美唄市史、美唄市百年史、美唄由来雑記

INFORMATION

美唄市郷土史料館
住所 美唄市西2条南1丁目2番1号
開館 AM09:00~PM05:00 ※入館はPM04:30まで
休館 毎週月曜・火曜・冬期間(11月1日から翌年4月30日まで)
   ※冬期休館中に入館を希望される方はお問い合わせください。
料金 一般(高校生以上) 個人200円/団体140円
   小・中学生 個人50円/団体30円
URL 美唄市HP